12歳で渡米しアメリカで教育を受けながらも英語が好きになれなかったという著者が抱く日本語の危機。
1章ではアメリカの大学主催プログラムに参加する作家たちの描写が書かれており、いきなり引き込まれた。1台のバスには西洋人、もう1台のバスにはアジア人というように、自然にグループができてしまったというのはリアリティがある。
2章以降は、パリでの講演の話や近代日本での外国語習得の話などが語られている。
特に印象にのこったのは福沢諭吉。
黒船の来航によりこれからは蘭学を学ばねばならぬと思い、19歳で長崎に行き緒方洪庵のもとで蘭学を学ぶ。当時はオランダ語の原書が数えるほどしかなく、勉強するためにその原書を書き写していたという。
そんなことを寝る間も惜しんで必死の思いでオランダ語を習得する。
これだけでもすごいのだが、まだ先がある。
自分のオランダ語を試そうとして横浜にいくと、西洋人に自分の言葉が通じない。
それもそのはず、彼らは英語を話していたのだ。
今までの自分の苦労はなんだったんだと落ち込むものの、翌日にはもう頭を切り替えて英語の習得を決意する。そして実際に習得してしまうのだ。すごすぎる。
当時に比べれば格段に英語を習得しやすい環境にあるわけだが、それでもなかなか習得できない。
やる気の問題というかなんというか。。
現在は日本語で小説を書くよりも英語で書いた方が、読んでもらえる人口が圧倒的に多い。したがって有能な日本人作家は英語で小説を書いていくだろう。そのぶん日本語の文学作品の質は下がっていく。
また、インターネット環境の整備により、情報収集、発信のどちらにおいても英語が圧倒的有利な立場になっている。
そのような点を考慮すると、日本語は滅びて行くのではないか著者は憂慮する。
このあたりは日本のプロ野球を見ればわかる話だろう。
野茂選手がメジャー挑戦する前は、有能なプレイヤーは日本でプレーすることしか考えていなかった。それが野茂選手がメジャーで実績を残すと、イチロー選手、松井選手、松坂選手といった日本を代表するプレイヤーが続々とメジャーに流出し、日本プロ野球の質が低下した。さらには人気プレイヤーがいなくなったことでテレビ視聴率も低下し、野球経営者も苦労している。
このようなことが日本語においても起こるというのが著者の主張だと推測する。
著者は英語の世紀を見据え、とるべき方針として3つあるという。
Ⅰは、<国語>を英語にしてしまうこと。
Ⅱは、国民の全員がバイリンガルになるのを目指すこと。
Ⅲは、国民の一部がバイリンガルになるのを目指すこと。
ここで、著者はシンガポールなど他の国の例をあげながらⅢが良いと主張する。
平等主義で全員がバイリンガルをめざすには相当なお金と時間がかかる。学校での英語授業を増やすということは他の教科、とりわけ国語を減らすことにつながりよくないというのだ。
個人的には全員をバイリンガルにする必要はないが、少なくとも全体的なレベルの底上げは必要だと考える。
思うに、現在の学校教育での問題点は発音軽視と外国人とりわけ欧米人に対するコンプレックス。
これらを克服するため、小学校で英語を導入し、ネイティブを教師とする。そして小学校の間はとにかく発音を教える。今の学校教育ではrとlの区別がなければvとbの区別もできないような教育を行っているが、正確な発音ができるようになれば、単語を覚えるときに意味だけでなく発音も正しくできるようになるのだから効果が高い。
中学・高校では英文法の時間だけ日本人教師。それ以外はネイティブが教える。そして、古文・漢文の授業はやめてその時間を英語にあてる。
これだけやれば結構英語力の底上げはできると思う。
まぁ、ネイティブ雇うのに結構金はかかると思うが、現状の中高6年間の英語授業がほとんど役にたたないというのよりはよっぽどましだろう。
アメリカの凋落により、将来的にはドルが通貨基軸でなくなる可能性があるかもしれない。しかし英語はこの先も普遍語として使われていくだろう。10年も経つと隣の席でインド人が仕事をしているかもしれないし、インターネットのビデオ会議で日本にいようが英語でビジネスを日常的にやることになるかもしれない。もう英語は避けられないんだという気持ちで真剣にとりくもうと気持ちを新たにした。
ラベル: パーソナルスキル, 社会